2015年2月1日の京都・西陣の朝の車載動画です。お正月以来の雪景色になりました。
動画内でもそれぞれの道や付近の歴史についての説明をしていますが、ブログではもう少し詳しく書いていこうと思います。
【千年以上前から様々な歴史の舞台になった西陣】
今回の動画で回ったのは西陣織で有名な「西陣」と呼ばれる地域です。現在でも織物に関係する仕事が多く集まっています。
位置は地図の赤色に塗った部分、京都市の中央より少し北西で、すぐ側には京都御苑や二条城があります。
【平安京の北端】
794年の遷都の際に作られた平安京は、このエリアが北端でした。
動画にも出てくる一条通りは、平安時代には一条大路と呼ばれ道幅約30メートルもあったそうです。
現在ではかなり道幅が狭まってしまいましたが、道の位置は当時とほぼ同じです。
【応仁の乱の「西」軍の「陣」地】
1467年には応仁の乱が起こり、主戦場となった京都はほぼ全域が戦火によって壊滅的な被害を受け、荒廃していきます。
この戦いで、西陣のエリアには西軍の陣が敷かれました。
これが「西陣」の名の由来となっています。
【豊臣秀吉の聚楽第】
1587年には豊臣秀吉の都市計画によって京都の町は整備され、西陣のあたりには聚楽第が作られました。
画像は中立売通り。右手の小学校に聚楽第跡の碑があります。
聚楽第は瓦に金箔を使うなど、大変豪華な平城だったようですが、1595年には秀吉の命により徹底的に破却されているので、詳細はよく分かっていません。
しかし、動画に映っているユニクロの向かいにあるハローワークの建て替え工事の際に金箔瓦が出土したり、この付近でマンション建設等の工事が行われると聚楽第の遺構が発見されたりするので、ここに聚楽第があったことは間違いないようです。
画像は金箔瓦が見つかったハローワークの向かいにある聚楽第跡の碑
【黒田官兵衛・上杉景勝・千利休…戦国武将の家がここに…】
聚楽第の側には豊臣秀吉の親族や側近、配下の武将の屋敷が立ち並んでいました。
動画のエリアにある石碑をご紹介します。
動画には映っていませんが、一条通にある黒田如水邸跡の碑。
黒田如水は、大河ドラマでも取り上げられた秀吉の側近、黒田官兵衛。如水は隠居後の号です。
動画の一条通開始のこの場面の辺りから、300メートルほど後ろ(東)に碑があります。
右に見えるのが黒門通にある上杉景勝屋敷跡の碑。このあたりは上杉景勝の役職の「弾正大弼」にちなんだ「弾正町」という町名です。
こちらは葭屋町通、晴明神社の二の鳥居の横にある千利休屋敷跡の碑です。
石碑の他にも町の名前に屋敷の名残が残っている所もあります。
赤い消火器ボックスに「飛弾殿町」の町名が見えます。
飛弾殿町の名前は、「飛騨守」が通称の蒲生氏郷の屋敷があったことが由来です。
聚楽第跡の周囲のエリアには、この他にも、先程石碑があった黒田官兵衛(如水)の「如水町」、加藤清正の通称「主計頭」にちなんだ「主計町」、福島正則にちなんだ「福島町」など武将が由来となっている町名がたくさんあります。
【町家の雰囲気を残す京都の町並み】
●いけず石
いけずとは意地悪の意味。家の敷地の角に石を置き、敷地の壁を車が擦ったり勝手に駐車されないようにして、先手を打って揉め事を避ける自衛手段。つけもの石程度の普通の石から、どうやって運んだのか気になるぐらいの巨石、テカテカの黄色に塗った石などいろいろです。
●うなぎの寝床
間口が狭く奥行きが長い「うなぎの寝床」という独特の短冊状の細長い敷地に昔ながらの町家が並びます。最近は家屋の老朽化による建て替え等で、町家自体の数はどんどん減っています。
●だいたい一方通行
京都の道は複数車線でない限りだいたい一方通行になっています。慣れないと、すぐそばに目的地があるのに曲がれず、どんどん目的地から遠ざかっていく事態も…。●お風呂屋さん
京都は古い家が多く、つい数十年前までお風呂のない家が多かったため、銭湯がたくさんあります。それも今ではライフスタイルの変化や銭湯の老朽化などで、かなり減ってきています。●元○○という通り名や町名
赤い消火器ボックスに元妙蓮寺町という町名が見えます。これは、もともとここにあった妙蓮寺が由来になった町名です。妙蓮寺は聚楽第造営の際に豊臣秀吉の命で移転しました。
そして、この道は元誓願寺通。もともと誓願寺があった道ということで付けられた名前です。誓願寺も秀吉の都市計画によって移転しています。
古いものと新しいものが共存し、歴史を感じることができる西陣界隈。
京都にはこのような風景がたくさんあります。もし京都を訪れることがあれば、町並みの雰囲気も楽しんでみてくださいね!
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